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平成13年11月1日:ひだかゼミナールを開講しました。日本のこと、世界のこと、私たちを取り巻く政治や経済、教育、環境問題など広くテーマとして取り上げていきます。ご意見、ご提案もどしどしお寄せください。
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「忠臣蔵」 第58回:平成14年12月10日

Q忠臣蔵とは何ですか? takeshi 元禄15年(1702年)12月15日、赤穂(現在の兵庫県と岡山県の県境の辺り)47士が主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)仇討ちのために、吉良上野介(きらこうずけのすけ)邸を襲撃した事件です。

Qなぜ、赤穂浪士は主君の仇を討たなければならなかったのですか? takeshi 元禄14年(1701年)3月14日、江戸城本丸松の廊下にて、刃傷事件がありました。浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけたのです。朝廷と幕府の儀式指南役の吉良が浅野に執拗な嫌がらせをしたなど、殿中刃傷事件の原因は諸説ありますが、真相は明らかではありません。結果、浅野内匠頭は将軍綱吉の逆鱗に触れ、即日切腹のうえ領地没収という厳しい処分をされたのです。一方、吉良上野介には何のお咎めもなく、この片落ちの裁定が仇討ちへと繋がっていったのです。

Q仇討ちは成功したのですか? takeshi 元禄15年(1702年)12月15日、午前3時半頃、筆頭家老の大石内蔵助を中心とする赤穂47士は、吉良邸へ表門23人、裏門24人の二手に分かれて討ち入り、約2時間の戦いの上、吉良上野介を討ち取ったのです。

Qその後、赤穂浪士はどうなったのですか? takeshi 討ち入りの次の12月16日、討ち入った46人は分散して熊本藩、伊予松山藩、長府藩、岡崎藩へ預けられ、一ヵ月半後の元禄16年(1703年)2月4日、46士はお預け先4藩の江戸屋敷で切腹し、泉岳寺へ葬られました。

Qなぜ討ち入ったのが47人で切腹が46人なのですか? takeshi ここに、寺坂吉右衛門という人物が出てきます。討ち入り後、大石内蔵助率いる赤穂47士は浅野内匠頭が埋葬されていた泉岳寺に向かいます。途中、大石内蔵助は寺坂吉右衛門に対し、結盟を抜け使者に立つように命じます。吉右衛門は命に従い、討ち入りの顛末を幕府には秘密裏に仔細に申し伝えるべく、また義士らの残された遺族らの生活を助けるべく、広島の浅野内匠頭の妻・瑶泉院など縁の続く者たちのもとへ旅立っていったのです。
(参考資料) 赤穂市HPより

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